「起こしたことはもちろん悪いが、起こしたことに真正面から立ち向かわずに事態をさらに悪化させることはもっと悪い。こうしたことを過去何年見てきたことか」 本稿脱稿時点ではまだ対応真っ最中ではあるが、新型コロナウィルス感染拡大問題(以下、新型ウィルス禍)のニュースを目にするにつけ、NEWS23のキャスターであった故・筑紫哲也氏の、雪印乳業食中毒事件に対する約20年前のこの厳しい指弾を再び思い出す。
「99%の安心」が「1%の危険」を排除
新型ウィルス禍報道では、時々東日本大震災との比較が見られる。全国一斉休校措置などの国家的危機事案という点で、大震災との比較に異論はない。但し、被災地の住人個人レベルで見れば危機意識の在り方が全く違うようだ。
大震災での被災地住人は誰もが痛みと恐怖を感じ、一致団結して事態の収束に立ち向かい、また苦難は分かち合うという現場レベルでの気運が生まれていた。これは、被災地のほとんどの住人が何らかの痛みを感じ、身の危険や行く末の不安を共有していたからであろう。一方、今の新型ウィルス禍では、身近な人に感染者がいなければ「インフルエンザ並」「感染率や致死率は極めて低い」「感染するのは交通事故に遭うみたいなもの」など、どこか他人事の受け止め方をする人たちも相当割合いるようだ。
これは、今回の新型ウィルス禍を個人レベルでは「99%安心だから大丈夫」と感じるか「1%危険だから不安」と感じるかの心理的個人差によるところが大きいように思う。さらに言えば、「99%安心」が「1%危険」を排除しがちな点が恐ろしい。
少なくとも東日本大震災では、こうした受け止め方の差は大きくなかったはずだ。私の専門領域でもある危機管理的に言えば、個人一人ひとりのリスクは極めて小さくても、集合体としてのリスクとダメージが甚大であれば間違いなく重大危機対応事案である。
特に今回の感染症は無症状患者が感染させる特徴があるとされており、指数関数的に爆発的拡大する恐れがある。本気で早期終息を目指すのであれば、この特徴がもたらす恐ろしさの科学的啓発と反自制行動に対する責任の義務付けは欠かせない。この点が、東日本大震災と比較しての違いであり、今回の感染症対策の最も難しい点の一つといえる。また、この難題を解消できなければ「起きている事態に真摯に立ち向かい、さらなる悪性化を防ぐ」ことなど夢のまた夢といえる。
「木を見て森を見ず」現象の横行を省みる
今回の新型ウィルス禍に見られる上記の傾向は、言わば「木を見て森を見ず」現象と言えよう。また、この傾向は今回のような国家的危機の当局対応サイドにも至るところに見られるようだ。個別具体的な事例の列挙は本コラムの目的ではないので差し控えるが、読者諸氏にも思い当たることが多々あるのではないだろうか。
もう少し正確に言えば、「木を見ずして森を語ろうとする」現象や「森を想像できずに木だけ見て語る」現象などである。最も厄介なのは、その現象を形成する人々は自分がそうだと気付いていない点にある。むしろ「自分はこんなに頑張っている」と思っていることが多い。この特徴は世の常であるため、大事なのはその問題をカバーする優れた対応システムの構築と専門家の配置、並びに実践的な訓練の実施である。一般論として、日本はこうしたシステム構築の必要性に対する認識が甘いと言われる。政府・官公庁のみならず企業活動でも同じことが言える。
やや極端な表現にはなるが、今回の新型ウィルス禍事案は間違いなく「重大な国家安全保障」カテゴリーに含まれると思う。「後手後手」「場当たり」との批判も強いこれまでの政府・当局関係者の対応報道を見るにつけ、危機対応の要である「備え」、すなわち「実践的で専門性の高い対応システム」の欠如は明らかである。国家安全保障は何も軍事的側面だけではないはずだ。「平和ボケ大国日本」の汚名を返上し、今回のような天災をその後に人災化しないためにも、またバイオテロ対策としても、そうした優れた対応システムの一刻も早い構築を強く望みたい。「正しく恐れる」とはこのことだと私は思う。
【注:本ブログ記事は、Next Mobility誌4月号に掲載された熊澤啓三コラム記事を、