本誌に寄稿し始めて早4年目を迎える。毎年その年初の回には、筆者の専門分野の視点で前年の世相を反映した特徴的なコミュニケーション動向を振り返ってみることにしている。因みに過去3年の年初コラム表題は古い順に「米国での対立扇動戦略と日本での無言戦略、対象的な日米コミュニケーション戦略を振り返る」、「AIコミュニケーションテクノロジーという新潮流」、そして「私の中の2019年流行語大賞“毛繕いコミュニケーション”」であった。
昨年の大半は、日本のみならず世界中の全ての人が「コロナ禍問題」という未曾有の危機管理に追われたと言っても過言ではないであろう。一部の模範国を除き、早期収束の甘い期待が世界中でことごとく打ち破られ、今もなお社会全体がその渦中にある。今年に入ってもまったく予断を許さないこの社会的な大事件に関し、日本国のリーダー層は昨年、国民に対しどのようなコミュニケーションパフォーマンスを発揮したのだろうか?
国のトップからの正面切ったメッセージ発信の少なさを憂う
国のトップの首相によるコロナ禍問題についてのリスクコミュニケーションに限ってみても、正直暗澹たる思いになる。春先のコロナ禍第一波と夏の第二波時期の安倍前首相と秋以降の第三波時期の菅首相のコミュニケーションに共通している最大の問題は、国民に対する正面切ったメッセージ発信機会の圧倒的不足にある。加えて、メッセージの信頼性を支える科学的エビデンスの質・量ともに大きく不足していたと感じる。そのために、コロナ禍発生以降マスメディア等で繰り返し指摘されてきている多くの重大な問題について、国民の理解促進と共感獲得には繋がっていないというのが実情であろう。
端的な例として「いつでもどこでも任意にPCR検査を受けられる体制づくりという政策方針の是非」というテーマが挙げられる。これに関して、当局関係者や感染症専門家等の局所的な「つぶやきレベル」報道や匿名報道はあっても、国のトップから正面切った合理的な説明が一度もなされたことがない。そのために、その政策方針の考え方自体が誤りなのか、考え方は正しいが現実的に無理なのか、何か説明できない事情があるのか、あるいはやる気がないのかさえ国民にはわからない。コロナ禍の本格的な収束に寄与する可能性のある重要な問題と考えられるのに、なぜエビデンスを伴った合理的な説明しようとしないのか不思議でしょうがない。この一点だけでも、コロナ禍問題に関するリーダーシップコミュニケーションとしては不合格と言っていいと私は考える。
首相と官房長官のコミュニケーション上の役割の違い
「首相からの正面切ったメッセージ発信の機会が少ない」という批判への切り返しとして、「スポークスパーソンたる官房長官に任せてある」との政権サイドの弁明を耳にすることがある。しかし、菅前官房長官でも加藤現官房長官でもその役割は「政府広報コミュニケーション」の実施であり、決してリーダーシップコミュニケーションではない。その2つの最大の違いは「政策リスクに対する重要なネガティブ情報」を、矜持を持って開示する覚悟があるかどうかの点にある。政府広報スポークスパーソンである官房長官の発信メッセージは、原則として担当官僚作成文の読み上げであり、広報という役割上ネガティブ情報を極限まで削ぎ落とす安全第一が求められる。従って、残念ながら上っ面に終止し腹にストンと落ちることが少ない。菅首相は、官房長官時代には「記者対応での安定感」に定評があったが、それはあくまでも政府広報スポークスパーソン業務に関してであった。
菅首相は、首相就任後もそのスタイルを続けていて、側近作成文章そのままで正面切って自分の言葉で咀嚼して話そうとしない。国民一丸となって立ち向かうしかない新型コロナという相手に、その一人ひとりの琴線に触れるコミュニケーション無くして勝ち目はあろうか?菅首相には早く官房長官体質から卒業してもらい、政治的リスクを覚悟してでも正面切って合理的に訴えかける真のリーダーシップコミュニケーションを是非実行してもらいたい。痛みを受け続けている国民は本気でそれを求めているはずだ。
【注:本ブログ記事は、Next Mobility誌2月号に掲載された熊澤啓三コラム記事を、許可を得て転載したものです】